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- 2010.9 越中八尾「おわら風の盆」(Part-2)...
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2010.9 越中八尾 「おわら風の盆」【Part-2】です。
★海外在住が永くて、「日本人を忘れそう!」な方!!!。
★地球の裏側まで旅行して、まだ、海外へ行きたいと思っている 方!!。
・・そんな方に、たまには、『日本人』を思い出していただくように、『越中八尾 おわら風の盆』です。
毎年9月1日は、春分から210日目にあたり、台風に見舞われる風の厄災を鎮める祈りの踊りとして「風の盆」と言われてきたそうです。 他の地方の踊りと異なり、女性は編笠を深く被り、地方には、三味線に胡弓が加わり、独特の哀調を帯びたメロディーです。主旋律は三味線でなく胡弓が奏で、ときには、歌い手とは全く違う旋律を、延々と奏でているところが、他の地方の民謡と全く違います。 11の町が自主的な運営で、一堂に会する観光イベント的色彩はなく、唯一、9月1日と2日に行われる、八尾小学校での「演舞場」が複数の町の踊りを観られる機会ですが、それぞれの町で、謡い方や踊り方が少しずつ違うそうです。 今では、平成の大なんとか?のせいか、「富山市」になっているそうですが、昔の「町」単位の暮らしを守って、子供から大人まで全員参加の「風の盆」、"家族崩壊"や"独居老人"なんて言葉はない?のです。 特に女性の踊り手が、編笠を深く被っているところは、どこかの国のマスカレード??と共通するところがある気がするのですが・・ 観光客は、「静かに見させていただく!!」のですが、少しでも雨が降れば、全面中止、・・・・どこかのイベントのような「雨天順延」なんか、ないのです。
連日36℃の猛暑の2010.9 八尾の街「日本」を感じる「風の盆」・
深夜、観光客のいなくなった地方(じかた)だけの町流し、三味線と胡弓、歌い手、の"ジャムセッション" ・・名人の歌う「おわら」は、
まさに、『・・・闇の中に声が走る・・・』のだそうです。
【Part-1】・・・街歩き
【Part-2】・・・夜の「おわら」
【Part-3】・・・番外編(雨晴海岸)≪予定≫
≪MP3で正調 おわら節をどうぞ≫
↓
http://yanai.la.coocan.jp/index1009yatsuo.htm2010/09/09 08:09:58
- 2001冬、台湾旅行記1(2):12月12日(1)名古屋出発...
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<2001年12月12日(水)>
<名古屋出発>
名古屋空港のカウンターに7時30分集合、9時30分出発と言う、早い時間のフライトでした。飛行予定時間は、2時間と20分なので午前中には台北空港に到着できる計算です。午後は十分に観光を楽しめるスケジュールが組めました。
このところ、金属探知機での出国検査で、無事に1階で通過できたためしがありません。一番チェックされやすいバンドのバックルをはずしてもそうです。今回もその例に漏れませんでした。
かなり細かいボディチェックを受けましたが、いつもの事ながら、よく理由がわかりません。腕時計、シャープペンシル、財布なども全部籠に入れて、金属探知機を通っても駄目です。最近は1回で通過できるのを諦めています。日本国内でのことですから、女性の係官に『いつもそうですが、おかしいですね』と話しながら、無事出国審査を終えました。
<中々の機内食>
中々の機内食と言っても、実は食べ物の方ではありません。小さなフランスワインのボトルが、赤、白ともに用意されていたからです。缶ビールの後に、白ワインの方を頼みました。銘柄はソービニヨンブランで、辛口の方でした。多分、ボルドー産でしょう。
食事の方は、鶏とシーフードが用意されていましたので、シーフードにしました。うな丼でした。名古屋空港のレストランで朝食を済ませていましたので、まだ、お腹がすく時間ではありません。うな丼の鰻だけに箸をつけました。
それと、テロ事件の影響がまだ強く残っているようでした。機内はがらがらでした。3割の乗車率に達しているかどうかの空き具合でした。横に3名ずつ座れる席が、横並びに3つあり、合計9人が座る事ができます。その真ん中の列には人影が無く、窓際だけに人が座っていました。
私の席も同様で、その分、広々とくつろげたのは、ありがたいことでした。とは言っても、航空会社にとっては、大変な痛手でしょうから、同情の限りです。
<台北到着>
途中、揺れも無く、ほぼ予定の時間に台北空港に着きました。21年前の旅行の時は、松山空港なので、台北市の中心街に近いところでした。現在でも国内線空港として使われているようです。今回も松山空港に、ビルを掠めるように降り立つ大きな機体を見た時には、思わず、アメリカでのテロ事件を連想してしまいました。
今の国際空港は、台北の北約60kmに位置し、市内までは車で1時間程かかります。地域は桃園と呼ばれる方面であり、中正国際空港の名前が付けられています。中正は、蒋介石総統の名前、号です。そう言えば、世界には個人の名前を冠した国際空港が多くあります。アメリカのケネディ、フランスのド・ゴール、イタリアのレオナルド・ダ・ピンチ等々である。日本には、その例は無いようです。
また、台北市内には衛兵が護っている広大な中正紀念堂もあります。第二次世界大戦の頃、中国大陸での国民党を率いて国共合作を画して、旧日本軍と戦った歴史的事件と併せ、台湾での戦後も歴史のページに多くを残しています。
<ガイドの呉さん>
現地で迎えてくれたのは、ガイドの呉さんでした。
『日本の囲碁で有名な『呉清源さん』と同じ呉さんですね?』
と、聞き返しましたら、
『そのとおりです』
と、流暢な日本語の応えが返ってきました。後でお聞きした話ですが、
『2年間、東京の大学に留学していました』
と、言われましたから、日本語が達者なはずです。もともと、奥さんも数学の教師で、奥さんの方は今も現役だそうです。お互いに年齢を確認しあったら、日本の年号で
『昭和24年生れです』
との答えでした。『1949年生れ」ではなく、昭和で答えられたのには驚きました。
呉さんが日本のことに詳しいことは、その大きな理由がもう1つありました。
『自分の父は、日本語教育を受けました。父と母は日本語で会話しており、いまでも家では日本語です』
と答えられ、少し複雑な気持になりました。台湾総督府時代の日本占領政策が、こんな形で残っていました。この呉さん、駄洒落が大好きで、まじめに聞いていると、思わない『落ち』があり、笑い声が絶えませんでした。
呉さんに案内して貰ったのは、台北に着いた12日が、私を含めて3名、次の日がもう一人増えて3名でした。母娘の1組と、一人旅の女性の方でした。それぞれに宿泊するホテルは違っていました。多分、日本で別々のツアーに申し込んであったためでしょう。
<台北ヒルトンホテル>
立ち寄りたくはありませんでしたが、両替と言う名目で、免税店に立ち寄りました。実は、既に空港の銀行で両替を済ませていましたので、両替は必要ありませんでした。しかし、ツアーであれば、ガイドさんの義務のようなものですから、お付き合いする事はやむを得ません。
そんな事で、台北駅前の台北ヒルトンに着いたのは、午後2時を大分回っていました。チェックインは呉さんが手伝ってくれ、セーフティボックスの場所も教えてくれました。早速、パスポート、帰りの航空チケットと、予備の財布に、万が-の時のお金を入れて、預けておきました。
呉さんが、明日、8時25分に迎えにきてくれるということなので、ついでに翌朝7時のモーニングコールも頼んで貰いました。
部屋は16階の16号室と覚えやすい番号でした。十分な広さと、清潔な部屋に満足しました。1泊9千円の1人部屋の差額を払いましたので、これで設備が悪ければ、怒れるところです。
<最初の昼食>
部屋に荷物を置いた後は、着替えもせずに直ぐに街に出ました。といっても、ホテルが街中にありますので、ホテルの外に出ただけのことです。ホテルの北側は台北駅で、広い道路を渡るのが大変なので、自然と南側に向かいました。
中途半端な時間に機内食を食べたせいか、かなり空腹感が出てきましたので、早速昼飯の店を探しました。ホテルの南側一帯には、進学塾が林立していて、学生の町となっていました。そのためでしょう、大衆店が多く、そのうちの1つに入りました。看板に『お値打ち49元チヤーシュー麺』があったからです。日本円に換算すれば、180円程度であり、カップヌードルクラスの値段です。
カウンターでは若い人がレジをやっていました。その人が、『先に食券を買ってください』と言ったように話されましたので、100元を出して食券を買いました。お釣りの51元を貰いました。当たり前ですが、看板どおりの49元でした。
麺は太麺で、腰はしっかりしていました。スープの隠し味は中々のものでした。テーブル毎に備えてあった薬味を入れましたら、更にコクが出ました。チャーシューの量は多くないものの、中々旨い味がありました。余分な油分を落として、スープとよく合いました。少しスパイスが効いているのもグッドでした。
昼食には遅い時間でしたが、私の後にも何人か店に入ってきました。女性、男性とも若い人達でした。やはりこの一帯は、学生さんの町のようです。気に入りましたので、昼にもう-度、この店を使いました。
<龍山寺へ>
龍山寺へは、この日を含めて4度行きました。同じ日の昼と夜にも行きましたので、正確には5回になったかも知れません。ホテルからそんなに離れていないこともありますが、台湾随一の名刹に、飽きないものを覚えたからです。
初めて地下鉄に乗ったのも、このお寺へ行くのが目的でした。そう言えば、21年前にはまだ建設されていませんでした。呉さんの話によれば、17年程前に最初の路線が開通したようです。台北市内の交通状態がひどく、これの解消に役立てようとの計画だったようです。
龍山寺駅までは、地下鉄乗換えなしです。料金も日本円に換算すれば、100円以下です。初乗り料金分だけですと、20元ですから、70円見当です。安いし、便利なので、この旅行では随分とお世話になりました。
最初の時は、地下鉄駅を降りて龍山寺への道を間違えてしまいました。駅名がお寺と同じ名前でしたから、降りてしまえば、すぐに分ると、タカを括っていたからです。たいしたトラブルではありませんでしたが、道を間違えたおかげで、面白い街の一角を見学できたのは、怪我の功名でした。
その面白い一角は、しっかりと写真に残しておきました。交差点を取り囲んで、建物の2階部分を含めて、回廊でぐるりと回ることが出来るようになっていました。新しい建物ではなく、相当に年月が経っている事に興味を覚えました。
最近では、空中回廊、空中遊歩道などが日本各地にできていますが、原型のようで面白い光景でした。また、その旧い建物の裏側に回りましたら、小さな祠がありました。そこでは、ゲームか賭博みたいなものを楽しんでいる地元のご年配が屯されていました。ほんの少し、台湾の下町の日常生活を垣間見た思いがしました。
<華西街夜市>
ガイドブックで、龍山寺の近くに華西街夜市が立っているというので、龍山寺の見学の帰りに探してみる事にしました。
華西街夜市を探す前に、龍山寺の周囲の小さな商店街を見学しました。これも夜市の一部かと思われる人出でした。食べ物の店が多くありましたが、土産物の店もありました。店構えだけでなく、屋台や駅の近くでは仮工事の小さなアーケードの店もありました。人だかりがしている間口の狭い店を覗きましたら、物々交換をやっているようでした。小さな商品が次々と出され、仲介人と思しき人が、マイクを使って取り仕切っていました。ほんの一寸覗いただけですが、中々面白い場面でした。
龍山寺の周囲の店を丁寧に回っていましたら、夜市、晩酌にも適当な時間となりました。それで、今度は華西街夜市が開かれている場所を探しました。その場所は、探さなくても済む至近の距離にありました。
『華西街観光夜市』の看板が掛かったアーケード内には、中々洒落た服飾、アクササリーの店や、台湾独特の店もありました。店先の頑丈な檻の中ではイノシシが飼われていたり、ニシキヘビや黄色い蛇を飼っている店もありました。『毒蛇』の看板もありました。
ガイドブックにも載っていますが、蛇料理はショウが前菜です。大きなニシキヘビを体に巻きつけてみたり、二十日鼠を蛇が入った籠に入れて見せたりします。さすがに二十日鼠は入れるような素振りで、実際には入れませんでした。
黄色の2、3mほどの蛇は大人しいので、みんなに触らせていました。中には、逃げ出す人もいましたが、ほとんどの人が触っていました。胴体が人の腕ほどの大きさだったので、これもニシキヘビの1種かも知れません。綺麗な蛇でした。
奥の席には蛇料理を楽しむ人が結構入っていました。料理に出される蛇は、勿論大きなニシキヘビや黄色の蛇ではなく、小さな黒色がかった地味な蛇のようでした。
<晩酌の店>
晩酌の店探しには、時間をかけました。候補の店を、2、3店見当を付けて、更に一回りしました。餃子の美味しそうな店でも、お酒が置いてなく、飲茶であったり、日本人目的の店は高そうだったり、といった難点がありました。
結局、落ち着いた店は、10人も入れば満杯になりそうな通りの角の小さな店でした。地元の人が2組ほどと、食事だけのような人が何人か入っていましたが、二人がけの小さなテーブルがまだ空いていました。
私は中国語を解せず、店の人は日本語を全く解せないことが分かりましたので、店先のショーケースの現物を、指差しで注文しました。
エビ、イカ、チンゲンサイなど3種類を頼みました。『ビール』『ショウコウシュ』などは何となく通じました。紹興酒は蓋を開ける前に現物を持ってきて確認させてくれました。こちらの人は、暖めず、常温で飲むらしく、私もそれに倣いました。
料理は手早く出されました。油くどくなく、美味しい料理でした。畳もたっぷりでした。ゆっくりと料理を楽しみ、ビールと紹興酒1本で心地よく酔うことができました。日本円に換算して2千円弱でしたから、端数はチップで渡しました。日本では、紹興酒1本だけで2千円以上は請求されますので、矢張りこちらは安い値段です。
店の女将さんが愛想がいい人で、常連客が多いように思えました。翌日もこの店に立ち寄りました。
<ウェルカム画面>
初日から十分に観光、食事ともに満足できるすべり出しでした。ホテルに戻ってからは、仕上げに名古屋空港で買ってきた吟醸酒を少しだけ飲みました。おつまみは、無しです。
テレビ画面を点けた時に、少し驚きました。チャンネル選択前に、私のフルネームが入った『ウェルカム画面』Jが写されたからです。さすがの、洒落た演出です。この画面、翌日は消えていました。ヒルトンホテルだからのサービスか、ITの国、台湾だからのサービスかは、確かめようがありませんでした。
明日の朝が早いので、12時を回る前には就寝する事にしました。
龍山寺の近くの夜市で
心地よき酔を楽しむ冬の夜の言葉交せぬ路地の店先
酔ほどに異国の言葉心地よきリズムとなりて杯は進みぬ
指差て頼みし地酒紹興の赤きラベルは底を見せたり2010/08/29 11:08:53
- ダンテをこよなく尊敬していた天文学者イニャツィオ ダンティ2...
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イニャツィオ ダンティはヴィンチェンツォ ダンティの兄で、1536年ペルージャで生まれ、学者、天文学者、地図製作者、宇宙学者として有名な人でした。
ヴィンツェンツォと同様、メディチ家の擁護を受け、フィレンツェ滞在中に世界地図の制作を手がけます。フィレンツェのヴェッキオ宮殿には、イニャツィオ制作の世界地図が展示されています。またサンタ マリア ノヴェッラ教会のファサードの左上には、イニャツィオがグレゴリオ暦を実験する為に取り付けた実験器具(古代の天球儀の一種)である渾天儀の輪がいまでも残っています。
コジモI 世が亡くなった後フィレンツェを後にし、ボローニャ大学で数学教授として教鞭をとり、その後再び生まれ故郷であるペルージャに戻ります。
数年後、当時ローマ法王であったグレゴリウス13世から教皇付け数学者として任命されたため、拠点をローマに移し、古代地図と近代地図の製作に携わります。イニャツィオの下絵を元に製作された地図は現在ヴァチカン博物館の地図ギャラリーに展示されています。
最後に、ペルージャの近郊ピシッレにあるプラネタリウムは、この町出身の偉大な天文学者イニャツィオ ダンティの名前が付けられています。(TIFOGRIFO投稿の本人の記事より抜粋)2010/08/26 03:08:29
- 新高齢者時代の80歳【4】深刻に考え込まなかった10歳代の前...
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10歳で、性に目覚めました。
中学校に入ってから、最も真面目であるべき「修身」の時間が、もっぱら男を解放する時間となった次第です。
成績を上げ過ぎないために、「修身」は調整弁として役に立ちます。
教育家だった父は「一番にはなるなよ」が口癖で、「修身」のほかにも「体操」「武道」などの不得意科目が成績低下の安全弁だったが、「武道」は柔道の腕が上がり始めて、安全弁としての役割を失いつつある中で「修身」は意義のある存在でした。
10歳代前半の5年間で、特記できるのは、13歳だった中学二年生の一年間です。
中学校に入学して第一年目は、県の秀才が群れ集まっている環境に圧倒され、足が地に着いていなかったが、二年生、13歳になったとき「このまま流されてはいかん」と発奮します。
先ず小学校時代の前半に見習って、自分の班の団結を学校一にしようとする努力でしたが、勉強のやり方も一変させました。
授業時間以外に家庭での予習、復習をしない。
その分、授業に精神を集中する。
予習や復習をしないとなれば、授業時間中に緊張感があります。
しかし集中し過ぎて頭が柔軟さを失うことを避けるため、授業中に雑談をするなど、常に頭を活発にすることにも心がけました。
この1年私を見守りながら励まして下さったのは、クラス担任の武藤真先生でした。
試験前日は、同僚たちが「徹夜をしたよ」と自慢し合う中、私はよく寝ることを心がけます。
よく寝た次の朝一時間早く教室に出ると、皆から質問を受けます。
それに答えながら、教室の中で試験準備が出来ることを知りました。
このやり方は効率が良く、しかも深く考えることを可能にしました。
教えて差し上げた友人たちから喜ばれ、自分は勉強が楽しく、一石三鳥でした。
学校にいる以外の余った時間は、マージャンなどを友達に教えたりして遊びましたが、図書館通いも楽しい時間でした。
そのころ熱を入れた読書は、「鴻巣先生の万葉集全集」「吉岡先生の『数学の話』連作」「野尻先生の星の話」「10巻を超える図説天文講座」等々でした。
このような日々の中、戦争は次第に身近に迫り、14歳の春軍需工場への徴用、親から離れての合宿生活、父の死、8月15日終戦と続きます。
写真は「ソフィーさんのマイページ」(訪問54カ国、文章1,590件 写真6,770枚)、
http://4travel.jp/traveler/katase/
スイスの写真が美しい「片瀬貴文さんのマイページ」(文章625件 写真2,400枚)
http://4travel.jp/traveler/takafumi/
ブログの作成日順に並んでいる「片瀬貴文の記録」(文章1,650件)
http://blog.alc.co.jp/d/2001114
(片瀬貴文 79歳)2010/08/02 05:08:21
- 「三大陸周遊記」を旅する イブンバトゥータ― イエメン/ ザ...
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http://plaza.rakuten.co.jp/hunkorogashi/
―― 熱風が吹きすさぶ漁村から 洪水の高原まで ――その2
代数学発祥の地とされる中世のイスラム学問都市ザビードに向かう。
途中にあるイエメン最大のマーケットが開かれるベイト・アル・ファキーフ村は残念ながら今日が土曜日であったため通過した。市は毎週金曜日に開かれる。
ザビードは819年、アッバース朝に反乱を起こしたティハマ地方の鎮圧者イブン・ジヤードにより建設された町だ。
アッバース朝がスンニー派(預言者ムハンマドの慣行などに従う一派。イスラム教の多数を占める)であるのに対し、シーア派(預言者ムハンマドの娘婿アリーを正統な後継者とする一派。イランやイラク南部)が優勢なティハマ平原にあって、スンニー派を広める戦略的意図をもって建設された町だ。
南アラビアを征したジヤードはアッバース朝からやがて独立し、ジヤード朝を興す。
「イブン・ジヤードはイスラムの大学にあたるマドラサの振興を図り、ザビードは学問の都市として200年間栄えました」
ティハマ砂漠の谷間、緑多いザビードの古めかしい町並みを散策しながらナジプサはいつになく元気がいい。
彼は仕事の都合で今はサナアに住んでいるが、ザビード出身なのだ。
ナジプサの容姿はアラブというよりアフリカ人だ。ティハマはアフリカの一部のようなものだと再認識する。
「ジヤードの支配が終わってもザビードの町は文教都市として活況でした。エジプトのアイユーブ朝支配下時代には衰退しましたが、1229年ラスール朝の都になったことで、モスク、マドラサなどが200以上も建ち、再び繁栄しました」2010/07/21 06:07:51
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