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MP3 食品 その他に関する旅行記
- 高原の温泉で、暑さ一服...
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夏休みの小旅行で、信州から岐阜をドライブして、濁河温泉の渓谷露天風呂を楽しんできました。二年前に、真夏の温泉って、暑すぎるかなぁ、と悩んで、高原地帯の温泉を物色していて見つけましたが、なかなか気に入り、今回またリピートしました。
到着日は、露天風呂も楽しめましたが、翌日は大雨になり、雨の山道ドライブになりました。雨ゆえ、その他の観光は楽しめませんでしたが、宿の温泉まわりの写真だけ、入れました。
長編旅行記は、下記のページにて、お読みいただけます。
Mari Shiono's Pages2010/07/31 03:07:51
- バリ島~レギャン~...
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ぶっちゃけ空港に着いた時は、このアジアンな雰囲気に生きていけるのか不安になりました。
でも、ホテルへ到着して海を見てテンション上がりました☆
ホテルは、「パドマバリ」。
コテージが良かったから、ガーデンクラブシャレーにしたけど、もうそれが最高でした◎
部屋は広いし、朝食は海が見えるテラスで種類も豊富!食べなかったけど、朝からステーキありました。
その他には、部屋の飲み物(ビールからジュースまで)すべてタダで、毎日追加してくれて飲み物には困らなかったし、洗濯も無料で呼べば取りに来てくれるし、かなり贅沢でした。
食べ物は、安くておいしくて最高!!
ただ少し治安が悪いので夜遅くに一人では歩けない感じかな。
色んな人がクラブに行こうと誘って来ます…
また絶対に行きたいな~。2010/07/31 03:07:44
- Sさんと冷戦、Tさん離脱、工場見学後2人旅に・・。 Vol....
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車旅4日目の夕食時である・・。
夕食の朧気な記憶が少しずつ鮮明になりかかった所で、この夜Sさんと口論した事が蘇ってきた。
Sさんが旅の初日に買った2リットル・サイズのクランベリー・ジュースが、初日に飲んだだけで、その後車のトランクに放りっぱなしになっていたので、改めて「自分で食べきれない物、飲みきれない物は、買わないで下さい」と注意した。
クーラーボックスに入れる物には、限りがある。
それ以前の問題として3人共用の金で買った物を無駄にするのはマナー違反だし、旅の始めに念を押した基本ルールを改めて告げる必要性を感じたからだ。
しかし、残念ながらこちらの注意はSさんの耳に届かなかった。
それどころか、「言い方がきつい・」と、突然開き直って逆ギレしたあげく、一番見たくなかった女性がオバサン化した際に見せる言い訳を、興奮しながらまくし立て、捨て台詞と共に部屋に引き上げてしまった。
その際、部屋に持ち帰った飲み残しのジュースは、それ以来Sさんが持ち歩く姿も、飲んでいる姿も見ていない。
1リットル以上残っていたジュースを、その夜イッキ飲みしたとはとても考えられないのだが・・。
しかも、その様子を静観していたTさんから、さらなる爆弾(?)発言が・・。
「サンフランシスコに友達が数人集まっていて、皆から『おいでよ・』と誘われているので、明日昼前にこの旅から離脱します」
と言ってきた。
明日の予定は、モーテル入り口付近に必ずあるチラシ置き場で拾った、『Jelly Belly』(ジェリー・ビーンズ)の工場見学と決まっている。
しかし、それが終わったらTさんをアムトラックの駅まで送り、彼は列車でサンフランシスコに向かう事になってしまった。
つまり、気まずい雰囲気のまま2人旅をスタートしなければならないのだ。
なんというタイミングだろう・・と思っても、Tさんを引き留めるわけにゆかない。
もしかして、この口論を見た事がサンフランシスコ行きを決断したのだろうか・。
それとも、明日泊まる予定の温泉町のモーテルが、1泊100ドル以上と高いので、セーブマネーの道を選んだのだろうか・・。
真相を聞かないまま眠ってしまったので、今も本当の理由は知らないままでいる。
いずれにしても、こんな口論をしただけに、明日の午後から先は2人旅になるのがなんとも気まずい。
昨夜泊まったバカヴィル(VACAVILLE)と、『Jelly Belly』の工場があるフェアフィールド(FAIRFIELD)は、ほとんど隣町のような近さにある。
工場見学の第1弾に加わるためには、30分前にモーテルを出発すれば充分間に合いそう。
到着してみたら、広い駐車場はがら空きで、先客は3、4台ほど。ド派手な宣伝カーを写真に撮り、いざ会社入り口へ・・。
内部もやたらカラフルで、見学開始時間まで退屈しないように、ジェリービーンの試食ができるようになっていた。
しかも、「なんでわざわざそんな味を作ったの・・?」と聞きたくなるような、アメリカン・ジョークたっぷりの味もある。
例えば、カビ臭いチーズ味に、缶詰のドッグフード味、赤ちゃんのゲップ味に、削った鉛筆味。
これくらいはまだ初級編で、腐った卵味に、吐き気味、鼻くそ味に、ムカデ(orゲジゲジ)味、果てはスカンク・スプレー(おなら)味まである。
どれか食べてみたい味はありますか・・。
仲間を驚かせて(騙して・?)やろうと、わざわざこの変味を土産に持ち帰り、皆の前で披露して盛り上がる絵柄が容易に想像できるが、10代20代ならまだしも、そんな仲間もいないし、同世代に食べさせたらきっと「悪ふざけが過ぎる・」と、顰蹙を買ってしまう事だろう。
工場見学スタート前に、『Jelly Belly』のマーク入りの紙製帽子を渡され、グループごとに記念撮影。
見学終了時に、パネル入りにした写真を「買いませんか」という、テーマパークによくあるアレである。
オートメーションの工場を見下ろす感じで、全面ガラス張りの廊下を進みながら、要所要所で止まって係員の説明と、ビデオ上映がある。
英語の説明を聞いても解らないし、工場内部を細かく観察していたら、休日のため作業員は居ないが、床に落ちているジェリービーンが気になった。
そのままの形を留めた物だけで、軽く100粒以上。踏まれてペチャンコになった物を加えたら、どのくらいになるのだろうか・・。
食品を扱う工場なのに、「コレは無いんじゃないの・」と気になって仕方がなかった。
工場見学後、見本の『Jelly Belly』をひと袋もらったが、各自土産品を物色し、格安の1着5ドルのTシャツと、ジェリービーンを数袋買い上げて、売り上げに貢献した。
この後、アムトラックの駅を捜すのにひと苦労。
何度も、何度も同じ道を行きつ戻りつし、土地の人にも5人以上尋ねたが、その内の2人(れっきとした大人なのに・・)は自分の住む町にある駅の存在すら知らず、車社会の徹底ぶりを痛感させられた。
やっとの事で見つけた駅は、先ほど通った道を曲がってすぐの所にあり、拍子抜けしたものだ。
駅捜しに1時間ほどかけ、Tさんと握手をして別れたら、気まずい2人旅の開始である。
駅捜しで道に迷っている時に見つけた『99¢ストア』に向けて、言葉少なく車をスタートさせた。2010/07/31 03:07:58
- ガイランゲルフィヨルドドライブ旅行...
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2010年6月下旬から7月上旬にかけて15日間、ベルゲンからソグネフィヨルド、ガイランゲルフィヨルドをドライブした記録です。ヴォスを出発して、E16を通りフロムヘ、更にその先フェリーで対岸に渡り、Sogndalから55号線をLomに向かい、15号線を西に走りガイランゲルに向かいました。ガイランゲルから日帰りでオーレスンに行きました。帰りはガイランゲルからヘルシスト行きのフェリーでフィヨルドを満喫しました。ヴォスへの道は5号線を南下しました。
カーフェリーはこのシーズンだとほとんど待たないで乗船できましたし、コストもリーズナブルでした。ただし、5号線のSkeiからSogndalの山岳部の一般道路は日本の有料道路より高価で確か約3000円相当でした。
フロムでは大勢の観光客がおりましたが、55号線で山に残雪が残っていた山岳部を通り、観光客が少なく落ち着いてドライブを楽しみました。
ガイランゲルに2泊したので日帰りで大西洋側の都市オーレスンまで往復しました。オーレスンはアールヌーボー風の建物があり、再度来たい町でした。
ヴォスからオスロへは列車の予定が山岳部の土砂崩れでバスになりましたが4時間遅れで到着しほっとしました。帰国して列車遅延等による払い戻し手続きをノルウェー鉄道会社に行いましたが結局一銭も返却がありませんでした。
費用のことは、往復ビジネスを利用したので比較的高くなっています。スカンジナビア航空、レンタカー、列車、ホテル等は行程をあらかじめ走行距離などを十分につめてから決定し、全てネットで予約した。
レンタカーはボスで借りましたが、市内中心部から徒歩で5分ほどのガソリンスタンドとスバルの販売店横に有り手続きはスムースでした。車種は日本車のスバルでドライブ中はエンジンの調子も良くコンパクトカーでしたが加速も快適でした。
ノルウェーのホテルについては、ホテルクラブ、マップル、Expedia等で予約していますが、値段は他のヨーロッパの国に比較して5割増し程です。部屋は普通ですが、ベットが狭くて日本のビジネスホテルの物より狭いです。一度は床にベットマットを敷いて上と床で寝ました。冬寒いのでベットパットでなく分厚いベットマットをつかっていますのでベットがふにゃふにゃで、最悪です。チェックインは午後3時前には出来ないと思ってください。また、連泊した場合部屋の掃除はしないようです。寝具はメンテナンスされていないようです。これは人件費が極端に高いことだと推測しました。
ホテルでの騒音について苦言を言うと、ノルウェーでは夏の間深夜2時から明け方までバールで大音響でビール等を飲んで楽しんでいるようです。冬は明るい時間が少ないのでわからなくはないのですが。海外旅行は耳栓が必携品です。
次に食事については、1週間を超える海外旅行では胃腸の調子に気を付けることが大事です。毎日チーズがたっぷり入った食事では調子を崩します。幸いにしてノルウェーでも中華料理店がありますので何度か行きました。私は日本からライス、ラーメン、お茶漬け等のインスタント食品を持参してたまに部屋食にして楽しんでいます。ノルウェーでサーモンのメニューがあるか何度か聞きましたが用意出来ないとの返事でした。勿論スモークサーモンはありますが。お勧めはおひょうhailbutの料理が比較的日本人にはなじむと思います。
最後にノルウェーの物価については消費税が25%であることもありますが、たぶん人件費が極端に高いので日本に比較するとおおむね1.5から2倍と考えた方が良いと思います。2010/07/31 11:07:01
- 円仁 入唐求法巡礼行記を辿る(1.江蘇省)...
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泰山木 涼める陰に 仄かな香
夏の中国を歩いていると、どこからともなく、仄かな芳香が漂ってくる。街路樹が植えられているあたりは、両側から伸びきった樹木の枝や葉で覆われ、道路一帯が日陰ではあるが、いわゆる木の下闇という雰囲気になる。泰山木の並木道で足を止め、ふと仰ぎ見ると、乳白色をした大輪の花が、分厚い大型の葉の上に、静かに咲いている。このいかにも高貴な雰囲気を持つ花を、汗を拭きながら目で追っていくと、蕾が開く瞬間に出会うことがある。暫くして、仄かな芳香が漂い始める。泰山といえば、山東省にある霊山で、歴代皇帝の多くは、天に即位を報告するために登る山と言われている。その名前がつくほど、泰山木は高貴な雰囲気と、王者の風格を備えた花ということなのだろう。夏の中国はとても日差しが強く、暑いが、今回の旅でも、街の街路樹に、公園に、そして駅のプラットホームにも、泰山木が植えられており、その芳しさを楽しむことが出来たのだ。
出出しが悪かった上海万博も、6月に入ると連日盛況のようであり、入場者数も目標の7,000万人を突破すると言う楽観論が出てきた。上海万博では、6月の日本ナショナルディーの初日に、大阪港を出帆した平成の遣唐使船を,万博会場の黄浦江側の船着場に停泊させ、日本ディーを祝うという話しを聞いた。俳優の渡辺謙が、当時の衣装で大使役を演じ(実際は、渡辺謙は親善大使として万博会場にはスーツ姿で下りたのだが)、その他の乗組員も当時の衣装を着けて万博波止場に船で横付けするというシナリオである。平成の遣唐使船はエンジンを装備した鉄鋼船であるのだが、外観は当時の船と同じ艤装をしたもののようだ。もちろん遣唐使船が、上海に入港したという歴史的な事実などあろうはずはないのだが。
その日、 上海浦東空港から,十六舗碼頭へタクシーで向かう。十六舗碼頭は豫園の東側に位置する、長距離船の船乗り場である。1990年ごろ、豫園を見学後、裏手の路地をあてどなく歩き、うろついたことがある。今は街区も整然と整備されているが、当時は、2メートル弱の路地に家がぎっしりと建っており、路地の上は洗濯物で溢れ、その下には露店なども出ていた。路地から丸見えの家の中からは、人の話し声や、食事を作る音などが聞こえ、些か異様な油の匂いも漂ってくる。路地で、茶碗を持ち、立ったまま食事をしながら、僕を睨みつける人もいる。路地を通り抜けると、そこには生きた魚を盥に入れ、饐えたようなにおいを発散する干し魚を山積みに並べた露天が集まる水産物の市場に出た。そこから砂埃をかぶりながら、崩れた舗道を更に黄浦江の方に歩いていくと、大きな荷物をもった大勢の人が建物の前や、道の傍らで、座り込んでいるところに出てきたのだ。その先の黄浦江沿いが、十六舗碼頭の船着場である。
今では、万博に併せて、黄浦江沿いを外灘から十六舗碼頭あたりまで公園として整備し、十六舗碼頭の建物も新しく建て替えられている。タクシーを下り、黄浦江沿いの公園に入ると、眼の前に浦東地区の摩天楼が広がる。その前の船着場には、朱色の鳳凰が艤装された平成の遣唐使船が繋留されているが、船上には人影が見えない。三脚を組み立て、摩天楼をバックに早速写真を撮る。モダンな摩天楼と、レプリカではあるが古い遣唐使船との間に横たわる1200年というギャップが、とても面白く感じられるのだ。聞くところによると、ここから万博会場への出航は、午後3時ごろとのことだった。出航の瞬間を撮りたかったが、しかし後の予定のため、諦める。
上海駅の隣にある長距離バスターミナルに向かう。13時発南通行きのバスに乗る。バスは高速道路を乗り継ぎ、蘇州に向かい、そこから揚子江の南岸にある常熟に入り、長江(揚子江)に架けられた蘇通長江大橋を渡り、南通市に入る。両側は、広大な経済技術開発区であるが、未だ相当の空地が見られる。沈海高速道路を進んで行くと、新興の住宅街では、高層マンションが、何棟かが同時に建築されており、幹線道路沿いも、次第に、沿道サービスの店舗が張り付く路線商業地域へと移行しつつある。竹行インターで下りると、バスは西に向かい、相変わらずの建築工事現場のような地区を走り続ける。前方の山の上に、パゴダを抱くお寺が見えてくる。狼山にある広教寺である。そこから道を北に取り、やがて古い町並みの市街地に入っていく。80年代の些か旧式の街並みを窓越しに眺めているうちに、外環西路にある南通長距離バスターミナルには、15時15分の定刻に到着した。バスターミナルの前でタクシーを拾い、鐘秀中路にあるホテルに向かう。下りる時、このタクシーの運転手の徐君に、明日一日の予約をする。チェックイン後、8階の部屋に通される。設備も、デザインも些か旧式のホテルであり、部屋の窓は東側にあり、窓から眺めると、隣の敷地は、これまた工事中であり、その向こうにも建築クレーンが幾つも動いている景色である。
休憩後、夕食を食べるところを探しながら、近所をぶらつこうと、些か涼しさを感じる頃に、ホテルを後にした。鐘秀中路を東に向かい、工農路との交差点を右に回ると、銀行や事務所,そして官公庁の出先などのほか、小売店舗も介在するが、どちらかというと業務的色彩の強い商業地に出た。暫く歩き、そこから細い道を少し裏手に入り込むと、一帯は古くからの住宅街らしく、共同住宅のベランダに洗濯物を干した建物が、建て込んで並んでいた。その辺りには、日本料理屋も多く集まっているようで、なにやら懐かしい屋号の店が並んでいた。その先には、桜だとか京都というような日本名らしいクラブもあり、外側には日本語で書いた広告が張ってある。南通市は、造船、紡績、紙製造、プラスチックなどの日本企業が進出して来ており、多くの日本人が住んでいるようで、最近日本人専用の有料の老人施設などもあると聞いたのだが、やはりここには既に日本人村社会が形成されているのだろう。
更に、歩いて行くと、濠河に突き当たる。濠河に囲まれた一帯が、嘗ての城内地区である。現在では、濠河沿いは、公園として整備されており、地区内には博物館や、レストラン、ホテルのほか、遊覧船や小舟などの利用も出来る水辺リゾート地区のようになっている。歩き疲れたので、濠沿いのベンチで休むこととした。番の水鳥であろうか、目の前の濠河を、したり顔で一定の間隔をおいて、泳ぎ回っている光景をぼんやりと眺めていた。
水鳥の 波紋に揺れる 蓮浮き葉
やがて周りがライトアップされたので、そろそろ夕食でもと思い立ち、手頃なレストランを探しながら、しばらく水辺を歩いた。結局、文化広場を少し下ったあたりに有斐大酒店があり、そのレストランで食事をしようと中に入っていった。1階にバイキング料理があったが、この地方の料理が食べたかったので、2階に上がった。しかしここでは、本日は百歳のお祝い会の貸切となっており、結局3階の隅の席を確保することとなった。菜単を眺めながら、大根の醤油漬けの漬物と陳年十年物の紹興酒を先ずは注文し、運ばれたお酒をゆっくり飲みながら、5品ほどを注文した。食後、夜景を眺めながら文化広場を散策していたら、遊覧船乗り場に行き当たり、それじゃ遊覧船でもと思ったのだが、大型遊覧船は団体専用であるので、よろしければ自分で漕ぐ小舟はいかがですかと言う、係員の勧誘には、安全を考え、そのままホテルに歩いて戻ることにした。濠河一帯は、原色を好む中国式ライトアップであるので、長く見ていると、厚化粧が鼻に着いて来るような思いに陥っていくのだ。
翌日、朝食を午前7時に済ませ、ホテルからタクシーで、円仁さんが上陸したであろう地点から、揚州の手前までを辿る事とした。
最澄の弟子で、後に、比叡山延暦寺の天台山第三代座主となった慈覚大師・円仁は、最後の遣唐使である承和遣唐使に、請益僧(短期留学の還学僧)として派遣されたが、結局9年間の滞在となり、その巡礼の日々について【入唐求法巡礼行記】という日記を書いていた。【入唐求法巡礼行記】は、漢文で書いてあるので、僕にはなかなか難しいので、主にアメリカの駐日大使であったライシャワー博士の円仁研究論文の翻訳本を、これまでにしばしば拾い読みをしていた。
円仁の日記は、第一船で難波津から瀬戸内海を通り、博多津に向かう下関あたりの、838年6月13日から書き始められている。その後の動向を見ると、以下のようである。
6月22日 博多湾(大宰府)を出航、その30時間後、五島列島の北島に至る。
6月23日 東シナ海を大陸に向かい北西に進む。
6月26日 海の色は淡い緑である。
6月28日 海の色は白み掛かった緑に変わる。
6月29日 船の半分が砂に埋まる。大使一行はボートで岸に向う。
7月1日 遠くに灯火を見つける。
7月2日 再び船が流される。やがてボートに乗った6人の中国人が現れる。陸に向かって進む。
7月3日 先に岸に向かった大使一行は、掘港国清寺で宿泊している。その寺で大使一行と再会する。そこに滞在する。
7月9日 地方守備隊と役人が寺に到着。
7月12日 大使は県庁所在地の如皋鎮に代表を派遣し、迎えを要請する。
7月14日 まずは大使以下30人が、舟を調達して県庁所在地如皋鎮に向かう。
7月17日 西64キロの如皋鎮から中国側の迎えの舟が到着する。
7月18日 ボートは2頭の水牛に引っ張られ、幅6mの一直線の水路を通り、如皋鎮に向かう。そこで20日まで滞在する。
7月21日 如皋鎮を出発。途中塩を積んだ横繋ぎのボートと出会う。
7月23日 如皋鎮から西59キロの海陵県(現在の泰県)の県庁の所在地に到着。
7月25日 更に西45キロの揚州に到着。
8月1日 揚州節度使李徳裕を訪問、円仁、円載の天台山行きを求めるため、正式に文書を提出する。
その後10月5日大使一行は長安を目指し出発。円仁の天台山行きの許可は下りず、開元寺で過ごす。
僕は、まずは、円仁さん達が、7月3日に到着した【掘港国清寺】に向かうこととした。現在は南通市如東県掘港鎮となっており、ホテルから北東方の黄海に近い鎮である。まずは省道335号を東に走り、通州区で省道223号に入り、そこから北に向かう。両側は農地が広がるが、ところどころに工業団地や住宅団地がスプロール的に開発されている。街区が整然とした地域に入るや間もなく、右手前方に、屋根と壁が黄色のお寺らしき建物が見えてきた。その駐車場で車を降りるや、線香売りが、一斉に駆け寄ってきて、大きな線香を売り付けようと執拗に迫る。それをかわしながら、掘港国清寺の正門に向かった。そこには線香売りや土産物売り、それにひねもすあてどなく時間を潰す老人がたむろする以外、信者らしき人は見当たらない。お寺は新しそうだが、普請が杜撰であるのか、管理が不十分なのか、何となくありがたみが感じられないのである。入場料も取られることなく中に入る。掘港国清寺は、遣唐大使一行が、出先役所に連絡が取れるまで滞在していたお寺である。そこへ、円仁を含む、残された遣唐使の団員たちが合流した場所である。雑然した本堂でお参りし、そこに居た老人に、円仁さんの話を持ち出すと、寺内にある石碑以外何もないというのである。円仁さんが喉を潤したと言われている甜水の井戸のありかを聞いたのだが、よく分からないのである。東屋風の建物の中に収められた石碑のところに行くと、小さな字でびっしりと文字が彫ってあり、その中に円仁という文字を見つけた。他に何かないかと、寺内を歩き回ったが、小さな部屋で坊さんが4,5人、お経を上げているのを見て、正直ほっとしたのだ。放生池の水は濁り、ゴミが浮いている。線香や蝋燭の燃え滓が山積みになっているなど、次第に心重い気持ちに陥っていった。
気を取り戻し、次に、黄海から揚州に向かう運河を見つけることとした。如東県の人民公園の北側に東西に走る運河があると聞き、地図で確認すると、東は黄海から西は少しジグザグするが、揚州まで繋がっており、如東の如と、泰州の泰をとって付けられた、如泰運河である。まずは人民広場に向かい、入り口の警備の責任者に、円仁さんの話を持ち出すと、円仁さんは知っているが、県の文化部に連絡するので、そこに行ってくださいというではないか。僕を円仁の研究者に間違えたのか、それにしても僕の知識では、些かお粗末であり、恥をかきそうなので、運河についてのみ聞き、文化部への訪問は遠慮することとした。公園の中に入り、真っ先に裏手を流れる如泰運河を見に行った。しかし公園からは如泰運河を良く見ることが出来なかったので、諦め、石板街に向かうことした。しかしこの古い街も、何度も運転手に聞いてもらったのだが、よく分からないのである。結局お昼近くになったので、昼食を取ることとした。人民北路の漁家楽酒家と言う小奇麗な小さな店に入った。どうやら家族で経営している店である。魚介類を中心とした店で、店主にお勧めを聞きながら5品ほど注文し、地ビールを飲みながら、食べ尽くした。
午後は、如泰運河沿いを海に向かってタクシーを走らせた。如泰運河は、土砂運搬船が行き来している。どうやら建築ラッシュにある江南地方に、安徽省辺りから砂利を運ぶ船が行き来しているのだ。円仁さんの時代のこの運河の幅は6,7メートルであったが、大型の運搬船が通る現在の運河は、幅が3,40メートルほどある。下流に行くに従い、河幅が広くなり、運河と道路の高低差は小さくなるが、運河の両側には堤防がないのである。大雨が降れば、一帯は浸水するということなのだろう。運河沿いに、アヒル、ガチョウを飼育している農家がある。運河沿いに作られた小屋から、運河に一斉にガチョウが入ると思えば、今度は一斉に陸に上がるという様子を、僕は、車を降りて、対岸から写真を撮った。円仁は、舟の上から、白いアヒルやガチョウの集団行動を眺めていたのだ。やがて大きな閘門に着く。東安閘門である。と言うことは、海が比較的近くにあると言うことなのだろう。この辺りは漁民だろうか、彼らの生活の場所にもなっているので、それなりに人家も見られる。この先には、漁港と東安外閘門があるが、道も狭くなり、注意して行きなさいという、忠告を聞いたが、運転手には行けるところまで行って欲しいと伝えた。しかし20分ぐらい走ると、穏やかな起伏があるが、低地の広がる地形に変ってきた。その先には、風力発電の風力機が並んでおり、はっきりは見えないが、更にその先に海があるように思えるのだ。円仁さん達が泥との戦いに苦しみ、もがいた泥沙と、その先に広がる海が見たかったのだが、この日の予定は、円仁さんが7月18日に到着している如皋鎮まで行く計画であるので、時間を見ながら、ここで引き返すこととした。しかし、唐代の海岸線は、今の海より17キロ手前であったという話しを聞いていたので、この辺りが,円仁さんが泥沙に悪戦苦闘した海岸線であったのだと思いながら、暫く、遠き日のこのあたりを想像しながら眺めていた。
如東鎮から如皋鎮までは、やはりその大方は、如泰運河に沿って行くこととなった。古い街並みを通り過ぎ、起伏のある農村地区を走り、再び運河沿いに出る。沈海高速道路と交差する辺りまでは、順調であったが、交差する付近は道路工事が進んでおり、運転手は道が分からなくなったようだ。僕は少し転寝をしていたので、その辺りの状況が良くは解からなかったのだが、気がつくと、助手席に中年の男性が坐っていた。彼の案内で、如皋鎮の城内に所在する定彗禅寺に着いた。この街は静かな落ち着いた町である。旧来の街の中心は、如泰運河と、弧を描いた外城河に囲まれた地区にある。その一画に定彗禅寺がある。お寺の前には、師範学校があり、丁度下校時であろうか、女学生が賑やかに話しながら、古い造りの校門から出てきた。僕は学生たちを掻き分け、定彗禅寺に入った。この寺の塔に登れば、この街の大方を見ることが出来ると聞き、息を切らせながら階段を一歩一歩上って行った。そこからは、旧市内には大きな建物がないので、一望に見渡すことが出来た。塔から下り、境内を歩いていたら、、旧暦の端午の節句が近いのか、寺内で、この寺の関係者らしい中年の女性が、笹の葉にもち米をいれ、棗などを入れた粽を作っていた。僕をその前に座り、暫くその手馴れた腕前を眺めていた。近くの水絵園を見ますかと尋ねられたが、どんなところか判らないので、曖昧に“ええ”と言ってしまったので、結局そこに行くこととなった。古い街並みを復元したり、いろいろな庭園や、遊園施設の集まった大規模な遊園地に過ぎない。ただ、この裏手には、如泰運河が流れており、円仁さん達がここを通り、揚州に向かったのだと思うと、何となく嬉しくもなるのだ。高い入場料を惜しみながら、結局早々に、裏手の運河沿いに出かけ、暫くそこで運河を眺めていたのだ。円仁さん達は、7月17日に、如皋鎮から迎えに来た船に乗り、如東鎮から、牛に引かれた舟で、64キロ先の如皋鎮に向かっている。この町には3日ほど滞在している。
運転手の徐君からは、長江からの運河のひとつである九圩港を見に行く誘いを受けていた。今日の運河巡りはこの辺りにして、急いで南通市の長江沿い地区にある港閘区に向かう。実は徐君はこの地区で生まれ、育っているのである。田舎の運河を嬉しそうに巡っている些か不思議な日本人を見ているうちに,自分の生まれ故郷を是非見せたくなったのではなかろうか。九圩港には長江との水の調整から大きな九圩港閘門があるのだ。九圩港閘門管理事務所の敷地の鍵が開けられおり、中に入ることが出来た。既に近所の人がそこに入っている。大きな四手で魚を取っている人から、凧を揚げている人、子供と一緒に走り回っている人など、家族でそれぞれ楽しんでいた。カメラを構えた僕の前に、二人の少女が跳んで着て、笑顔を作ってくれた。僕は急いでシャッターを押した。二人にこの写真を見せると、とても嬉しそうに、そしてもう一度満足そうに笑ってくれた。
夕食は、ホテルの斜め前にある、“江海漁港”に出かけたが、既に混んでいた。何処でもかまわないと言ったら、2階の階段を上がった廊下にある席に案内してくれた。ここはまさに通行人で溢れる繁華街の道端で食事をするようなものだ。出入りするすべての人が、僕の席の前を通るのである。異邦人の強みか、見られながら食事をするのも経験かと開き直る。いつものように、まず老酒は、水香国色黄酒、そして酒の肴は、青菜毛豆と蜜汁南瓜を注文する。酒を飲みながら、メニューを何回も見ながら、時間を掛けて5品ほど注文した。
翌日狼山に向かう。狼山は、馬鞍山、黄泥山、剣山、軍山の五山でもって自然風景区となっている。狼山は、嘗て揚子江の中の島であった。唐代に鑑真和上が乗った船が、日本に向け運河を出発し、瓜州鎮に出て、揚子江に入ったが、風を避けるためにこの狼山で停留している。そして翌日に、この狼山の山陰を見ながら、揚子江を下っていったのだ。後に唐招提寺で、故郷を思うとき、鑑真さんは、狼山のあの朝の暁の様子が、脳裏にしっかりと浮かんできたのではないだろうかと、狼山の頂上にある広教寺から揚子江を眺めながら、僕は勝手なことを想像していた。
753年、鑑真和上は、6度目の日本に渡るため、揚州当局の厳しい監視の中、夜陰に乗じ、揚州から小舟に乗り、黄泗浦、現在の江蘇省張家港まで長江(揚子江)を下り、そこで故国に戻る遣唐使船四隻の内、副使大伴古麻呂の第三船に、乗り込んだのは11月10日だと言われている。鑑真の来日を働きかけてきた日本僧普照は、出航直前に寧波の隣の余姚から駆けつけ、第二船に乗り込んだ。第一船には、大使藤原清河と、在唐36年の阿倍仲麻呂が、乗船していた。11月15日の夜半、折からの月明かりを利して出航した。
阿部仲麻呂が、“あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさの山に いでし月かも”と、故郷への思いを、逸る心で詠んだのは、【黄泗浦】の遣唐使船上でのことだと言われている。その場所は、この狼山からは揚子江を挟んだ対岸付近であり、現在の張家港市塘橋鎮鹿苑であり、今では国道沿いに鑑真の東渡を記念した“東渡苑”が建っている。阿倍仲麻呂は、717年、16歳の時、養老の遣唐使の一員として入唐したのだが、753年天平の遣唐使の帰国船に乗り故郷に帰るその船出の前夜、35年前に遣唐使の出発にあたり、三笠山の南辺りで行われた神事を思い出したのだろうか。【大日本史】に寄れば、阿倍仲麻呂の故郷を思うこの歌を詠んだのは明州、今の寧波であると書いてある歴史学者の本があった。井上靖の【天平の甍】には、小説ではあるが、揚子江沿いの黄泗浦から出発したと言う設定になっている。厳しい監視、目が見えない高齢者で、多くの将来品を持参する旅などの、鑑真の当時おかれた状況から見て、揚州から、船で大運河を通り、明州まで行くということが果たして考えられるだろうか。
長江は 狼山に遊ぶ 鑑真忌
帰国する日、飛行機の出発までは特に予定がなかったので、世博会会場に向かった(9:45--11:45)。運転手に聞くと、産業館地区のほうが入り易すく、特に3号ゲートであれば、早く入れると言う。事実、浦西側の3号ゲートから、30分余で中に入ることが出来た。しかしパビリオンには入ることなく、会場のあちこちでただ写真だけを撮り、2時間ほどで外に出た。この日の入場者は、54万人であったと、後で知ったのだ。
そして、いつものように、夕方便で帰国した。2010/07/31 09:07:08
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